1975年にアルバム『若い民謡』でデビュー。デビュー当時のキャッチフレーズは『民謡界の百恵ちゃん』であった。
原田直之と共にNHKの番組「民謡をあなたに」の司会を務めた。
その中でジーパンをはいて民謡を歌う姿が当時は新鮮で人気を決定的にした。
津軽民謡を得意としたが、三味線奏者の本條秀太郎に師事したことによりレパートリーを広げ、民謡のレパートリー300曲と言われ、その場でリクエストに答えて即座に歌うコーナーもこなしていた。
結果、1979年から2年連続紅白歌合戦出場。
一日3時間しか寝られないというほどの売れっ子となり、民放でも大活躍したが、フジテレビの社員と結婚後、人気が急落した。離婚後、歯科医と再婚。
1982年に大瀧詠一プロデュースの『イエローサブマリン音頭』がヒットした。この曲はビートルズ結成20周年記念曲ということであったが、多くのまじめなビートルズファンから顰蹙(ひんしゅく)を買った。
だが今ではこういう活動もクロスオーバーの成功例とも考えられ、ワールドミュージックの流れに乗ったという評価もある。事実、寺田創一による民謡のハウスミュージック的リミックスを録音しており、本人はその後の事態をコントロールしていた。
清酒大関のCMのほか、ロウソクの炎を揺らさずに歌う日東あられのCMも話題になったが、その後、充電期間を置きながらも地道に歌手として活動。現在は民謡よりも演歌を主体に活動している。
他の活動では、1984年に初のヌード写真集を発売、昔ながらの「日本人体型」の裸体は独自のエロティシズムを発揮、話題となった。
インターネットのヘビーユーザーで、公式サイトのBBSの返答は自らが書いている。